愛着障害が発達障害に間違われやすいのはなぜか【愛着障害 発達障害 虐待サバイバー カウンセリング 東京】
- 汐見カウンセリングオフィス
- 3 日前
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更新日:21 時間前
愛着障害は発達障害に間違われやすい
虐待を受けてきた方へのカウンセリングに携わっていると、その難しさに直面し、反省しなければならない場面に多々出会います。それはもちろん、治療者である私の想像力が足りなかったからですが、どういった点が想像できなかったのかを突き詰めていくと、一般社会から孤立し、人を怖がりながら、耐え忍ぶようにかろうじて生きているその姿もまた浮かび上がってきます。
なぜ、虐待を受けてきた方の心理を理解するのは難しいのか——。私の反省も含めて、長文になりますが以下に記していきます。
理解するポイントは3つ
虐待を受けてきた方のこころの傷を理解するためのポイントは、3つありそうです。
⒈社会的な”存在感”の脆弱さ
⒉自己表現(愛着)へのブレーキ
⒊反復強迫
こうした独特の心理状態が「普通」の人たちからの理解を難しくさせていそうです。順に説明していきます。
社会的な”存在感”の脆弱さ
虐待は親から子への存在の否定です。こうした状態が慢性的かつ継続的に続くと、自分はいないほうがよいという気持ちが育ち、社会の中での存在が確からしいものとしての実感が芽生えないのです。一般化した言葉で置き換えると、働きがいとか、生きがいとか、そういう表現が近いかもしれません。
しっかりとした基盤のうえに自分の存在感が確立されておらず脆弱なので、ふとしたことがきっかけで、”存在”が揺れてしまうのです。わかりやすく例をあげてみます。
あなたが職場でちょっとしたトラブルを起こしてしまったとします。内容としては軽微なものです。取引先との連絡メールがほかのメールに埋もれてしまっていて、期限までに回答することができず、相手先から催促を受けてメールの見落としが発覚し、上司から「どうなってんの」と言われてしまいました。いろいろと苦労しながら、なんとか対処したときに隣にいた同僚が「お疲れ様」と声をかけてきます。
ここであなたは、それを「労い」と取りますか。
それとも「もう挽回は無理ですね、いままでご苦労様でした」という、ちょっとした嫌味と取りますか。
もちろん、どう受け取るのかは、この同僚とのこれまでの関係性にも左右されるでしょう。しかし虐待を受けてきた方は、後者の嫌味として受け取ることが多いのではないでしょうか。その理由は、自分がここにいてもよいという気持ちが育っていないからで、それゆえ自己否定的な考え方が固定されているからです。少しのことで被害的になってしまい、人や社会のことを信じられないのは、人生の初期に親を信じることから始められなかったからだと考えられています。
自己表現(愛着)へのブレーキ
重大なものから軽微なものまで、虐待を受けていると愛着障害(アタッチメント症)というこころの傷を負うことになります。これは自己表現に強く制限がかかっている状態です。
あまり得意ではない人から飲み会に誘われたとします。「嫌です」とやんわり言って断ることができないので、結局飲み会に参加して疲れてしまいます。反対に、仲よくなりたいと思っている人からの誘いには遠慮してしまうので、断ってしまいます。
どちらとも自己表現にブレーキがかかっているゆえの苦しさなのですが、それがとても人間関係が不器用であるように見えてしまいます。
嫌なほうには向かっていってしまい、よいほうは避けてしまうという、矛盾です。
この矛盾に気づいてしまうのは、苦しいものです。
ここまで述べてきた「⒈社会的な“存在感”の脆弱さ」「⒉自己表現(愛着)へのブレーキ」は、ともに人付き合いに過大な苦労を伴わせます。それが理由で「人のこころが読めない」と言われて(もしくは自ら感じて)、ご自分のことを自閉スペクトラム症なのではないかと感じることが多いようです。または常に居場所がなく緊張しているので、落ち着きがなく注意欠如多動症だと思ってしまう方もいるでしょう。現に、いつも焦っているので仕事上のミスが目立つという訴えもあります。虐待を受けてきた人(愛着障害を負っている人)が発達障害に間違われることが多いのは、そのためです。
こうした診断や指摘が併記されている方も最近では珍しくなくなってきたと思います。
行動上だけの特徴を見ると、確かに発達障害っぽく見えてしまうのですが、こころの動きはそれとは異なっていると筆者は思います。
反復強迫
最後に反復強迫ですが、これも通常からの視点では理解するのが難しいかもしれません。
反復強迫は精神分析の用語で「幼少期の外傷体験(トラウマ)を無意識に確認してしまう行動」とされています。
虐待を受けてきた人にとって、親から愛されたいという期待を裏切られることは日常でした。期待しては裏切られ、そのたびに虚しくなるという人生の流れがあります。
ある虐待を受けてきた人がこう話したことがあります。
「やっぱり自分は愛されないんだと思うと、なんだか妙に納得する」
その人は配偶者からDVに遭っていました。一般的な角度からではなかなか理解されないのですが、優しくされるかもしれないという期待が見事に裏切られて暴力を振るわれた後、妙に安心するというのです。こうした心理から、虐待を受けてきた方はDVする相手を選び、そしてその人から離れられないということがあります。幼少期の外傷体験がDVを通して再確認されているのです。ご本人にその自覚はありません。
DV以外にも、依存症だとされる行為の背景には、こうした心理が隠れていることがあります。
もちろん、ここで述べたことが虐待を受けてきた方の全てに当てはまるわけではありませんし、当てはまらないからといって、虐待を受けていないというわけでもありません。
親子関係にどこか変なところがあったのではないか、普通とは違う家族だったのではないか、と感じる方はいっしょに確かめていきましょう。
筆者 植原亮太